モルモット
昨日19日、厚労省は、iPS再生医療に「仮免許」を与えた。
しかし、本承認にはハードルが。
そのハードルとは、商用化へ有効性の証明が必須、らしい。

このニュースの中で、開発のハードルが高い再生医療などに限って有効性の確認前に
保険診療として製品の販売を認める、と言うのが仮承認の仕組みのようだ。
紙面での年表では、
2020年、大阪大学の澤芳樹教授らがiPS細胞から作った心臓の細胞をシート状にし、心不全患者に移植
2025年、阪大発新興クオリプスと住友ファーマがiPS細胞由来製品の承認申請
2026年、厚労省の専門部会が上記2社の製品の製造販売を承認
と言う流れのようだ。
iPSを使った心筋シート移植から遡る事3年の2017年には、自分自身が前出の澤芳樹先生が開発した自己細胞を培養した心筋シートを移植してもらった。
その治験は自分自身では6例目だった。
自己細胞の培養の成功率は個体差が大きく、6例中2例はハートシートを移植するも効果が無く、補助人工心臓の装着になった。
更には自己の細胞をシート状に培養できない例も有ったりと、不安定な状態だった様だ。
前段の6例中、失敗の2例を除いた4例の中では、私の術後の成績がダントツで良好らしい。
自称(自虐ネタ)「最優秀モルモット」と認定されたかどうかは知らないけれど昨年の関西万博に澤先生から招待を受け、
人工心臓が展示されたパソナ館に招待され、見学に行ってきた。


ハートシート移植の治験を受けたのが9年前の2017年
その3年前の2014年には、特発性拡張型心筋症で余命5年の宣告を受けた。
更に遡る事10年、膝の手術を受ける際に心肥大が告げられていた。
その時の検査では高血圧が心肥大の原因です、との診断をうけていたが、今思えば、息切れがひどくなり、
喉に痰が絡み咳き込むなど心筋症の症状が出ていた。
つまり20年前から私の心筋症の病気が進行すると同時並行的に、大阪大学では澤先生が心臓病院では死なせないと言う信念の下
ハートシート移植に繋がる研究を進めていた。
それが札医大の小山先生につなげて貰い、私の今がある。
空港日参
何やら毎日地元空港への送迎続き


今、帰省する次男を迎えに帯広空港。
9:19、JAL537便到着のアナウンスあり。
昨日17日は東京に帰省する三男を送りに空港へ
時系列で見ると
13日三男の嫁と子供2人の出迎え
14日三男本人の出迎え
16日午後三男の嫁と子供。これは夫である三男が空港まで送る。
今日来た次男は日帰りで明日18日には横浜に帰る。
世間では、「便りが無いのは良い便り」なんて言葉があるが、
我が家は外孫もうるさいぐらいまとわりついてくれる程距離が近い。
「頻繁に帰って来てくれる幸せ」を噛み締めている。
55年前には我が家から2kmぐらいで、今の自衛隊ヘリコプター隊の基地になっている所が帯広空港で、
当時はYS-11と言うプロペラ機が東京と丘珠空港を結んでいたが、
ジェット化に対応する滑走路延長に、騒音郊外反対を訴える市民の反対運動で今の以平地区に移転してしまった。
不便この上ない。
紘ちゃんガンバレ
今日2月8日は衆議院選挙投票日だ。
選挙に先駆けた6日夜農協大会議室で中川紘一君を応援する会が開かれた。
約500人以上の組合員や職員が集まる中、かれの立ち合い演説会が開かれた。

紘ちゃんは早稲田の雄弁会出身だけあって、35才と言う若さでありながら、後援会長はじめ応援弁士の言葉を織り交ぜたり、
長芋農家で掘り取り作業中ナガイモを折ってしまった失敗談や、我が広瀬牧場では搾乳など牛の世話を体験させていただき
加えて温かくて美味しい朝ごはんもご馳走になりました、と、お世話になってる方々とのエピソードもそつ無く組み込んでいた。
中々の弁士ぶり。
今夜8時過ぎの投開票が楽しみだ。
因みにわたしが中川紘一君を「紘ちゃん」と呼ぶのは、延べ一週間ほど早朝から牛舎作業に来てくれた際
朝食も一緒にした親近感からです。
紘ちゃんは、男前、明晰でありながら気立の良さ、軽いフットワークと三拍子揃い踏みだ。
高市旋風
今朝の道新一面
6日前(1/29)、選挙公示直後の道新一面には「自維過半数の勢い」と調査結果が載っていたので、更に自民党が勢いづいているニュアンスだ。
この間TVを含むメディアは、来年度予算審議を放棄しているとか、各地の大雪風景を背景にこんな時に選挙は無いだろう。
投票日にもし大雪で投票者の足が奪われたらどうするのかとか、何となく高市総理の揚げ足取りばかりが強調されていている様だ。
解散理由は
「論より証拠」
高市早苗が総理に選出されてからの2ヶ月間の外交内政を国民に見極めてほしい。
与野党伯仲では政策が前に勧められない。高市早苗(自民党)か野田、齋藤の何れかの選択選挙だ、と言う。
重ねて、メディアは、肝心の解散の論点を見えなくしているようだ。
昭和38年2月2日
オレが小学校五年生だったこの日の朝。
「にいちゃん起きて、おきて。大変だ。とっしょりばーちゃん死んだみたいだよ」と、同じ部屋で寝ていたはずの妹の絹子がオレを揺り動かしている。
熟睡を起こされたオレは、寝ぼけ眼で「まさか⁈」と(多分不機嫌そうに)目を擦った。
「だって、ばーちゃんの部屋にお医者さんも来てるよ」と絹子。
夕べの夕食のカレーライスを「美味しいなぁ」と言ってキレイに食べていたのに、俄かには信じられなかった。
しかし、ただ事では無さそうな顔で「ほんとだってば」と言い募るばかり。
ようやくの事布団から出て階段を降りて見ると、ただ事では無さそうな雰囲気の中隠居部屋の前に行くと、
はつばーちゃんの長男で祖父の種治と、白衣を着て首に聴診器を掛けた緑ヶ丘の佐藤先生がはつばーちゃんの枕元で
向かい合う様にして何やら話し込んでいる。
布団の足元から見えるはつばーちゃんの顔はスヤスヤと眠っている様だった。
はつばーちゃんの思い出
4才の頃(昭和31年)のオレとはつばーちゃん

同じ年の夏。庭にて

米寿のお祝いを前に、記念写真を撮る

明治9年生まれのはつばーちゃんは暑い夏には「アッパッパー」を切る事もあったけど、凡そ着物姿だった。
毎朝鏡台の前で、着物の衿に白いハンカチや手拭いを挟み、左手に手鏡、右手に柘植の櫛で髪をとき、集めた髪を後ろに纏めて整えていた。
身綺麗なばあちゃんだった。
そのばあちゃんが突然亡くなった。
それがタイトルに有る日時で、今日で63回目の命日だ。





