放牧
ウエモンズハートの店舗で独自に飼っている牛の親子一組。
外ではフクジュソウが咲き
ホトケノザも咲き、少し春めいて来た
もう舎飼いは嫌だと、今にも駆け出しそうなので、外に出してやると、
気持ち良さげに見えた
これから半年以上、雪が降るまで、ウエモンズハートのお客様を案内してねー
スクリミッツィ ロレンツォ
半月前から来訪予定だった、カルピジャーニジャパン社長のロレンツォ氏と北海道担当の酒見氏が
午後来店した。
表敬訪問とは言え、ジェラートばかりでは無く、チーズ製造などに関する技術も提供しているとの事。
1時間半はあっという間だった。
3月31日
昨日30日早朝、「昨日29日と言っても、もう73年前の話しだけど...」と94才の老母が、問わず語りに話し始めた。
読んでいた業界紙(日本農業新聞)から顔を上げると、続けて母は
「3月26日に初次郎ジイさんが80才で亡くなったんだ」
「うん」
「葬式には、岐阜からは連れ合いのはつばあちゃんの弟3人と、嫁いだ娘の内たね叔母と岩崎実、道子叔母夫婦、甥の増田高司、松岡正雄など8人が弔いに来た。
岐阜からまる一昼夜かかるため、28日夕方西帯広駅に到着。馬車で出迎え。そして通夜。29日に葬式だった。」
「ふんふん」
「揖斐のお客さん達は、31日は初七日なので、お参りしてから揖斐に帰ろまいか、と話していた。」
その数年前から牛は飼っていたので、若いオヤジとオフクロは朝晩は餌やりや乳搾りは当たり前の様に済ませた上での葬儀と
それに伴う接待に次ぐ接待だった。
「そんな30日の夜から陣痛が始まって、31日の朝方にお前が生まれたんだ。」
「ほうほう」
「当時の葬儀は全て自宅で執り行うのが基本で、牛舎には行かなきゃならないし遠来の弔問客の世話でてんてこ舞い。
お前が生まれる予定日は4月20日だったけど、早産になってしまった。オッパイに吸い付く力が有ればいいけど、ひょっとしたらなぁ...と、
言葉を濁されて」
「そうだったんだ」
「でもな、私のオッパイはサシ乳で、お前が咽せて困るくらい出て助かった」
「お陰様で、今では相撲部屋の親方に間違えられるくらい、なりました。」
そんなこんなで初七日法要もそこそこで、
「オチンチンを付けて来たなんて、爺さんの生まれ変わりじゃ」とか
「これで跡取りができた」
「名前は何々が良いなどと、てんでに盛り上がったけど、文彦という名はお前の父さんが付けてくれたんだ」
70余年前のオレ
今日3月31日、目出度いめでたいオレの73回目の誕生日
今朝の日の出
仏壇に差し込む朝日
今夜は、家族でお祝いしてくれる様で、楽しみ!
3月31日
昨日30日早朝、「昨日29日と言っても、もう73年前の話しだけど...」と94才の老母が、問わず語りに話し始めた。
読んでいた業界紙(日本農業新聞)から顔を上げると、続けて母は
「3月26日に初次郎ジイさんが80才で亡くなったんだ」
「うん」
「葬式には、岐阜からは連れ合いのはつばあちゃんの弟3人と、嫁いだ娘の内たね叔母と岩崎実、道子叔母夫婦、甥の増田高司、松岡正雄など8人が弔いに来た。
岐阜からまる一昼夜かかるため、28日夕方西帯広駅に到着。馬車で出迎え。そして通夜。29日に葬式だった。」
「ふんふん」
「揖斐のお客さん達は、31日は初七日なので、お参りしてから揖斐に帰ろまいか、と話していた。」
その数年前から牛は飼っていたので、若いオヤジとオフクロは朝晩は餌やりや乳搾りは当たり前の様に済ませた上での葬儀と
それに伴う接待に次ぐ接待だった。
「そんな30日の夜から陣痛が始まって、31日の朝方にお前が生まれたんだ。」
「ほうほう」
「当時の葬儀は全て自宅で執り行うのが基本で、牛舎には行かなきゃならないし遠来の弔問客の世話でてんてこ舞い。
お前が生まれる予定日は4月20日だったけど、早産になってしまった。オッパイに吸い付く力が有ればいいけど、ひょっとしたらなぁ...と、
言葉を濁されて」
「そうだったんだ」
「でもな、私のオッパイはサシ乳で、お前が咽せて困るくらい出て助かった」
「お陰様で、今では相撲部屋の親方に間違えられるくらい、なりました。」
そんなこんなで初七日法要もそこそこで、
「オチンチンを付けて来たなんて、爺さんの生まれ変わりじゃ」とか
「これで跡取りができた」
「名前は何々が良いなどと、てんでに盛り上がったけど、文彦という名はお前の父さんが付けてくれたんだ」
70余年前のオレ
今日3月31日
日の出
仏壇に差し込む朝日
今夜は、家族でお祝いしてくれる様で、楽しみ!
帯広の森とオレ
今でこそ、少しは人に知られたウエモンズハートの店長として店の采配を振るっている家内だが、
昭和53年に洋裁学校の教師を捨ててしがない牛屋と結婚した。
新婚旅行から帰った翌日から、裁ち鋏を餌やりのフォークや糞掻き用のスコップに持ち替え、
ミシンをトラクターに乗り換えて牧草畑を縦横に走り廻る日々だった。
その1、2年後の早春、牧草用の基肥を積んだトラックを家内に運転させ、自分は愛車"JD2020"にブロードキャスターを付け先導する。
目指す牧草畑に到着すると、昨年帯広市が「森」の用地として買い上げたであろう300間ほど離れた畑に、
部落の人の物ではない見慣れないトラクター走り廻っているではないか。
帰ってからその事をオヤジに話すと、隣の農協M地区の、N原やW田と言った牛飼い達がグループをつくり、
帯広市の財産である森の用地を特定のグループに独占させるとは何事だ!我々にも管理権を認めろ!と談じ込んだらしい。
翻ってみると、大半が森の予定地に入り離農間近の牛飼い達を巻き込んでいる為、
我が家を合わせた3戸の牛飼い達が手を挙げるばかり。
しかもその2戸は共同で、梱包した乾草を近くの畜産農家に全量売り捌いていて、
いくら地権者の権利を主張しても、説得力が無いのが現実だった。
地権者では無い地区から割り込まれた事は腹立たしかったけれど、18.7haしか土地を持たず、換金作物も栽培しないとやって行けない我が家にとっては、
20〜30haの土地を安定的に、しかも借地料無しで借りられと言う恩恵はザラにある話しでは無い。
昭和57年頃には36頭繋留牛舎では手狭になり、一部の搾乳牛を育成用のフリーストールで飼い、入れ替えて搾る様になる。
そして昭和60年には、50〜60頭を搾乳するようになったのだが、帯広の森の未整備用地の管理と言う名目の飼料基盤が安定していた事が幸いしたのだった。
つづく...