あね いもうと
我が家の内孫は女の子二人姉妹だ。
年が4才離れているせいか、殆ど喧嘩らしいケンカは見た事がない。
今日は、姉が1人掛けソファーに向かって、iPadを覗いていたら妹が一緒に見せてと
潜り込んでいた。
夕方少し気温が下がり始めていたので、薄着だった妹が羽織っていたベビー毛布を
姉にも掛けながら覗き込む姿が微笑ましい。
意地悪
ジェラートショップにとって、来客の動向は、天候が大きく左右する。
昨日、今日は天候が不安定。
昨日土曜日は午後から雨で夕方には上がった。
そして今日日曜日、起床時は朝日が差す期待出来る天気だったが、徐々に雲が厚くなり営業開始頃から雨が降り出した。
しかも寒い。20℃には行っていないようだ。
雨には強弱はあるものの、間断なく降り続いていた。
こんな時天候でもほぼ途切れずご来店いただき、本当に感謝しかありません。
しかし好天時の3分の1程度。
そして午後6時閉店。
外に出てみると雨が上がり、日が差し始めている。
西の空も日高山脈が顔を出し始めた。
きっと明日は晴れると思いますが、何とも残念な天気の二日間だった。
退耕還林
中国の環境保護政策の事。
人口14億を抱える中国。
その一地域黄土高原地帯のはなし。
国の許可なく森林を伐採し、畑にしている地域だが、国は違法行為を厳しく取り締まり始め、
開拓農民から土地を取り上げ、自然破壊の進行を食い止める為、植林を行うのだとか。
中国ては土地の私有は認められていないので、取り上げられても文句は言えないのだが、
「せめて収穫まで待ってくれ。」「いや、今すぐだ」と強硬な役人に、必死に抵抗する農民の姿が放送されていた。
メシは命の親玉だよ。
飢えている人々を救うのも、国の役割だよね(我が国も一緒か)
朝を、迎えに来た。
特発性拡張型心筋症と診断され、同時に後5年と言う余命宣告を受けたのが9年前、62才の時だ。
あれから幸運が重なり昨年12月、阪大病院の宮川先生から「心臓の状態は安定しています。この状態を
続けられれば、一般的に言う平均寿命までは大丈夫ですね。」と言って頂いた。
しかし、無理したら絶対ダメ、命、縮めますよ。と言われ続けて来た結果、生来の怠け根性か習い性なのか
農作業や庭いじりなどは全くと言っていいほど手を出さなかった。
それが今回やむに止まれず、ガボチャを栽培する事になった。
ジェラートに使うカボチャが年内に在庫切れになりそうとのスタッフの声から、一念発起したのだ。
昨日「えびすカボチャ」の種を仕入れて来た
そして夜の帷が上がろうとしている午前3時起床。着替えてカボチャ畑に向かう。
その間にも東の空がズンズンと明るくなり、地面近くは朝靄が這っている。
こんな風景も懐かしさを覚えるくらい見ていない。
そして、手でふた粒ずつタネをまいている内に朝日が顔を出してきた。
「おお文彦、今朝はお前に負けたナ。昔はよく早起きを競い合ったもんだが、随分ご無沙汰じゃった。
これから又、早起きの競争したいもんじゃ!」などと声が聞こえて来そうだ。
「誠、清々しい!」
「自由」
今朝の道新の新五感紀行の第一面に大きく川湯温泉が紹介されていた。
それを見て55年前を思い出した。当時帯農では、家業の手伝いを条件にバイク通学が許可されていた。
自分も高2の初夏、2度目の実地試験で晴れて合格。そしてその夏休み、孫に甘い種治爺ちゃんが中古のバイクを買ってくれたのだ。
それからと言うもの通学以外に、日勝峠の展望台や襟裳岬。糠平、大津とバイクの足を伸ばし
16才の少年にとっては、バイクのスピード感が堪らず、時間を見つけてあちこち走り回る。
走るにつけ、自分の行動範囲が十勝管内に広がりると同時に山裾まで農地が拓かれている事に気づく。
そこで働く人々を見るにつけ、我が家の立地条件が、農地が平らであったり、帯広の町に近く生活の利便性も高く
恵まれている事にも肌身で感じた。
折りしもそんな時、チョッパーと言われる改造バイクで広大なアメリカの大陸を疾走し、様々な困難を乗り越えて行くアメリカ人青年達の映画
「イージーライダー」が上映され、2度と来ない青春を自由奔放に生きる事にも憧れた。
そうやって一年、バイク慣れしてきた高3の夏休み、友人と3人で十勝を飛び出そうと3泊4日のバイクのツーリングを計画した。
我が家に前泊した陸別と川西の同級生と3人で国道38号を左折。
1泊目は層雲峡、2泊目は網走そして3泊目が川湯だった。
当時国道と言っても未舗装の道路も多く、砂利にハンドルを取られ道路脇の畑にバイクごと飛び込んだり、
エンストををしたりしながら、ようやく川湯の硫黄山に到着。
小学校の修学旅行で来ていたに何故かここの記憶は鮮明だ。
そこの駐車場でバイクを止め、サングラスを外しヘルメットを取ると
メガネをくり抜いた歌舞伎役者の様な白塗りの顔が可笑しく、お互い腹を抱えてひとしきり笑いあった。
後は凄く硫黄臭かった事ぐらいしか思い出せ無い
翌4日目、阿寒横断道路(砂利道、カーブ、アップダウンが酷く最大の難路だった)
を走り、阿寒湖から足寄(ここはカープは少なかったが、矢張り砂利道)。
足寄で昼飯後、1人は別れて陸別の自宅へ。残る2人は上士幌から帯広市内へ。
ここで川西の友人と別れ、無事家に帰った。
初めての長旅。緊張感で疲れたが、一方で自分の自由意思で旅を全う出来、
ますます「自由」への憧れが大きくなって行くのだ。
それから15年後、牧場の冠名に「liberty」を入れたのも、
高校時代、2番草の収穫真っ盛りの中、父親から「獲得」した小さな小さな「自由」も含まれている。