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十二代目 宇右衛門の廣瀬文彦が語る ウエモンのよもやま話

2025年8月21日(木) 05:16

護ると言う事

 最近、新聞テレビでの報道は随分減ってきているが、中国海警局による尖閣周辺の領海侵犯は相変わらず続いているらしい。
その中国では戦艦の様に武装した海警局の船で、南シナ海の内海化も無理矢理進められている。

 60年前の事。
中学校の社会科では、日本と韓国との海上での国境線が1952年、時の韓国大統領によって一方的に線引きして主張され、竹島には軍隊まで派遣している。
1952年と言う年は、日本が第二次世界大戦敗戦後、連合国の監視下から漸く解放されるサンフランシスコ条約が調印された年だ。
2年前の1950年、アメリカの命令で日本は、警察予備隊なるものを作ったばかり。本格的に自前の軍隊が認められていなかったのだ。
そんな混沌とした時代のどさくさに紛れて、韓国は勝手に国境線を引いた。
それを当時の韓国大統領の名をとって「李承晩ライン」と言うが、必ず旧に復すると当時の社会科の小野関先生は、負ける事の悔しさを滲ませながら教えてくれた。

もう少し遡ると、北方領土問題だ。
年初めの札医大受診時、いつもの様に訪ねた紀伊國屋書店で「日ソ戦争」(麻田雅文著、中公新書)と言う本を買った。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾する形で降伏をしたのだが、9月2日ミズーリ号での降伏文書調印した日を終戦と強弁するソ連は
日本軍が武装解除した8月17日以降千島列島を南下。加えて樺太南部にも侵攻し、占領してしまう。
火事場泥棒と非難されて然るべき所業だ。百歩譲っても北方四島だけは日本固有の領土だが、ソビエトロシアは居座ったまま80年がたってしまった。

 話しは小さくなって、農業者から見た領土(農地)について。
農地の境界線は号線や隣家の農地、更には防風林などで区分けされている。
最近その境目の一つ防風林が荒れてきている。
枝払いはしない。雑木も蔓延りそれらの枝がトラクターにぶつかるのを避ける為、1間2間と作付けが内回りになってしまう。
外国の軍隊(防風林の枝や雑木)に静かに領土(農地)を侵されているのと同じことだ。

63才の時、指定難病の一つ特発性拡張型心筋症と診断され、余命5年の宣告を受けた。
それ以来、農業の現場から否応無く引き離されて10年以上になる。
経営に口出しをすれば嫌がられる事もしばしばで、それをいい事に、傍観を続けてきた10年でもある。

札医大の小山雅之先生、阪大名誉教授の澤芳樹先生に余命宣告を止めて頂いた今、オレも領土(農地)維持の為少しは動かなくては。

両先生への恩返しも含めて......

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2025年8月20日(水) 07:58

少年の翼

 18日午前、埼玉県川越市から中学生の一団が、十勝農楽校の体験にやってきた。
川越市が「少年の翼」として、市内24校の中学校から選抜された2名ずつ計48名と、
過去に少年の翼を経験した20才になる11名のリーダー、合わせて59名の一団が、十勝で様々な体験をする為に
派遣しているものだ。

少年の翼の研修日程や内容は全く把握してはいないのだけど、「十勝農楽校」では酪農の楽しさや牛乳の価値についての話し、
牧場見学と子牛との触れ合い、アイスクリームの手作り体験。最後にウエモンズハートのプレゼントジェラートを食べて頂くと言うもので、
もう15年程続いている。

 選抜された少年少女だけあって何に対しても素直で積極的。
もう60年以上も前の自分自身の記憶を手繰り寄せ、重ねてみる良い機会で、こんな子達が背負う日本の未来がたのしみだ。
そして受け入れる側としても背筋が伸びる一時だった。
最後に記念写真。
その際、一人のリーダーが我々老夫婦に気遣い椅子を用意してくれた。IMG_6090.jpeg

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2025年8月16日(土) 18:37

8月15日

 昨日8月15日はお盆のお中日だがそれと共に終戦記念日でもある。
特に今年は80回目という事で、新聞やTVでは8月6日の広島、9日の長崎両市への原爆投下から1週間以上、
「二度と戦争の惨禍を繰り返すな!」的な論調で繰り返し報じられている。
IMG_6083.jpeg
紙面をアップしてみると当日正午、悲しみに打ちひしがれた市民が正座して頭を垂れて宮城遥拝していると言う見慣れた写真だIMG_6084.jpeg
実はこの時の生き証人が我が家には存在するのだ。
そう、今年白寿を迎えた父博昭がその人だ。
当日都内の、旧制麻布中学校に通っていたので、3月10日の下町大空襲も命からがら逃げ惑っていた。
そして5ヶ月後、玉音放送を聞いた途端「これで死ななくて済んだ、バンザーイ!」と声に出すのは憚られるので、心の中で何度も叫んだそうだ。
そしてまた、宮城に向かって正座して頭を垂れている人の心の内を父は「天皇陛下戦争をやめてくれてありがとう、天皇陛下バンザーイ!と叫んでいた筈だと言う」
兎も角皆んな悲しい気持ちではなく、「戦争を止めてくれてありがとうの気持ちだった筈」といつも言う。

 さて新聞やTVでは、戦前の日本政府や軍部と小市民と言う二項対立で戦争を描く。
「国力の差が歴然としているのになぜ無謀な戦争に突入して行ったのか?」
「300万人も戦死させる無駄な戦争だった」
「日本は東アジアや東南アジア諸国への無謀な侵略を繰り返していた」
「愚かな戦争だった」的な論調が、73才の自分の記憶にあるかぎり続いている。

80年前。
極東国際軍事裁判で日本の所謂A級戦犯とされた7人は「平和に対する罪」で絞首刑になったが、
この軍事裁判が開かれるまでは、戦争は政治の延長(ドイツのカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』では、主権国家の権利とも)として認められていた。
又、アメリカのヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡日本』でも、江戸末期、鎖国日本の門戸を無理矢理こじ開け帝国主義思想を植え付けたのはアメリカで、
日本を裁く権利は元々無い、とも言っている。

何が言いたいか。
大東亜戦争に於る日本の戦略、戦術の稚拙さは否めないかも知れないが、あの戦争があったからこそ日本は元より中韓を含むアジアの独立と安定は作られたのであり、
靖国に眠る将兵の命には国民こぞって感謝すべきである。

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2025年8月13日(水) 05:47

盆の入り

 今日8月13日は盆の入りと言う事で、朝早く盆提灯を飾る
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昨夕、倅が盆提灯を中々飾る気配を見せないので、老父が心配そうに「明日は先祖が帰ってくるから、盆提灯飾ってくれないか」と頼まれた。

55年も前、オレが農業後継者となった頃の話し。

 春雪解けを迎える4月は牧草畑に基肥を撒くシーズンだ。
雪解けが進み畑にトラクターの轍の跡が付かなくなる頃を見計らって散布するのだが、
その時期を今か今かと見計らっていると、オヤジは「まだ肥料は撒かんのか?」
 6月になると一番牧草の収穫時期だ。
乾草に仕上げるのに最低3日の好天が欲しく、天気予報と睨めっこしているとオヤジは「まだ草は刈らんのか?」と先走る。
 いつも先走る親父に嫌気がさして、「こんな家飛び出してやる!」と息巻いていたものだ。
 飛び出す勇気が無かったから、未だに親方ヅラして家にいるのだが......

 さて、老父は99才の白寿を迎えながら、折々の行事も忘れずに声をかけてくれる事を喜ぶべきか、
はたまた他人がやろうとしている事を先回りして指図するクセは直らない。

 早朝、盆提灯を飾りながら「こりゃオヤジは百寿間違いないや」と73才の息子は思うのだった。

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2025年8月12日(火) 05:55

ウエモンズハート、26年目の夏

 今年は昭和100年。
広瀬牧場が岐阜から移住したのはそれよりやや古く108年。
第二次世界大戦が終わって80年。
酪農を始めて77年
そしてウエモンズハートは四半世紀を越え、26年を迎えた。
そんな2025年。暑い夏だ。

7月下旬の道内は35℃越えは当たり前、40℃も記録した。
気象予報士の言を借りれば、危険な暑さ又は災害級の暑さだ。

帯広も予報では40℃の日もあったが、38.8℃とタイ記録だったらしい。IMG_6030.jpeg
ウエモンズハートにとっては追い風だが、本業の酪農、牛達にとっては文字通り災害級で、手放しで喜べないのも事実だ。

そんな中26年目を迎えたウエモンズハートは、ますます盛んと言えるかも知れない。
昨日も今日も1,000人を超えるお客様に来て頂いている。
誠に感謝に堪えない。

その26年と言う時間軸で言うと、店舗工房の老朽化、それに相俟って我々夫婦もとうに古希を過ぎてやはり老朽化して来た。

我々には残された時間は少ないし、待ってはくれない。


 

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