帯広の森とオレ
帯広の森事業が始まって3年目。
帯広市による森の用地の買い上げが進むと同時に、下台の3丁目、4丁目は西帯広ニュータウンとして造成も進み始めていた。
宅地としての「ニュータウン」と、公園緑地の「帯広の森」では用途が違う為、帯広の森の側の地価は半額或いはそれ以下と買い入れ価格に大きな差が付けられて
いる事に気づいたオヤジの頭にあるアイデアが浮かぶ。
買収予定地内の地主の長老を代表に、自分は副代表として、帯広の森地権者協議会を設立。
ニュータウンとの地価の整合性を要望すると共に、一戸ずつ買い上げるのではなく、
一戸あたり1億円前後になる様に、併せて高齢で離農を喫緊の問題としている者を優先にしてもらう様要望する。
市の方では虫食い状態での用地買い上げとなる為難色を示していたが、団体交渉で協議会側の主張を勝ち取る。
後継者も無く高齢化が進行していた「森」の地権者達は、自分が生きている間に買い上げてもらえるのか心配の声が上がり始めていた為だが、
順次ニュータウンなど思い思いの場所に宅地を買い求め新居を建てて移り住む事が出来たのだ。
それと同時に父は、我が36区には牛を飼う畑作酪農の農家が大半なので、市が「森」の用地として買い上げた土地の
管理する権利を、廣瀬個人から地権者協議会に移管する事を提案。
元々水田を基盤とした農家などは土地が少なく、例え5年10年であれ、飼料基盤が安定すると
大喜びであった。
しかし市もサルもの。
市が買い上げるも「帯広の森」の植樹が追いつかない余剰の土地は、牧草地として保全するなら
市民にも受けが良く、協議会とウインウインの関係になったため、委託管理料は協議会に移行するとともに
3年目からは打ち切りとなってしまった。
広瀬牧場では飼料基盤として「森」の用地から管理として常時20〜30haから牧草を収穫し、1991年(H4)にはフリーストールとミルキングパーラーを導入し、
1994年(H7)には念願の100頭搾乳、出荷乳量870tを実現したのだった。
つづく...
5分間のショー
午前5:07、新聞からふと目を上げると、日の出前の朝焼けがはじまっていた。
5:10、随分と赤味を増してきた。
5:11、朝日が上空の雲の襞を浮かび上がらせる
5:12、更にさらに、
その1、2分後雲の裏側に太陽が上がったのか、一瞬にして朝焼けは雲散霧消!
続「帯広の森」とオレ
「帯広の森」とオレ。
昨年5月26日以来10ヶ月ぶりに続編を...
人口20万都市を目指して帯広市市街地を取り囲むように計画された帯広の森構想に
振り回され、ドサクサに紛れ、あわよくば海外へ逃避しようと妄想は膨らんだのだが、
オヤジの迫力のまえにあえ無く潰えてしまった。
さて、406.5haの農地を緑地化する帯広の森構想は昭和49年あたりから、土地の買い上げが始まり同時に、
市民植樹祭もはじまる。
昨年まで耕されていた畑に市民がてんでに入り込み次々と木が植えられ、先人の開拓の苦労を無にする様で実に悲しい風景だった。
2年目の植樹祭が終わってみると、毎年国の補助金で買い上げる土地の面積に対して植樹の面積が追いつかず、
耕作放棄地の様にアカザの林立する畑が目立ち始めた。
帯広の森構想は帯広市議会でたった1票差で可決された事業なので、買い上げた農地を荒らしたまま放置する事には市の公園緑地課も頭を悩ませていた。
そこに目を付けたオヤジが公園緑地課に出かけ、植樹できなかった農地を草地にして管理すると言う名目で
牧草の種子代と整地、播種代金を頂いて管理委託を受ける様になった。
昭和50年の事である。
そんなオヤジの動きは露知らず、オヤジの命ずるまま愛車John Deere2020にデスクハローを取り付け
7.5haに林立するアカザを踏み倒し鋤込み、バイオリンと言う播種機で牧草の種を蒔いた。
当時、我が家の農地は22.7haしか無い中、牧草やデントコーン、家畜ビート言った飼料作物の他に
小豆や大豆なども作っていて、少しずつではあるが乳牛も増頭し始め、飼料作物が不足し始めていた矢先、
市から管理委託料を頂き加えて飼料不足にも対処できる一石二鳥の出来事だった。
そして翌年も委託管理料を頂きながら5haくらいを草地化するのだった。
つづく...