澤先生
昨日、予ねてからお誘いのあった、阪大名誉教授との昼食会で、2年ぶりくらいに澤先生にお会いした。
術後6年が経った今、体調の良さげな私を見て大変喜んでくれた。
隣りに座っている方は、6年前拡張型心筋症の手術を澤先生の下で執刀していただいた堂前先生
お二人とも今は大阪警察病院の院長と、循環器科の医長を務めておられる。
澤先生は相変わらずの優しい人柄で、この先生に自分の老後を確保して頂いたと思うと、
感無量の貴重な時間だった。
JC
一昨日18日、帯広青年会議所の今年度新入会員に対するアカデミー研修会が広瀬牧場ウエモンズハートを会場に
開催された。
研修内容は「地域を知ろうだ」
先ず初めに、進行係の開始挨拶と簡単な一日の流れの説明、委員長挨拶、副委員長の趣旨説明、講師紹介と35年前と変わらずきちんとしている。
そして、司会に促されて漸く私の講演が始まる
アカデミー会員は8人。理事長ら出入りをするギャラリーを含むと総勢25名余
自分も昭和63年36才の時に入会し、アカデミー委員会で、JCの何たるかを叩き込まれた経験もしているため、
懐かしくも緊張感いっぱいで話しをした。
以下レジュメだ
これに沿って話したのだが、私の持ち時間は丁度1時間。
JCでの講演は格別な緊張感がある。
「演者は聞き手の貴重な時間を割いてくれているので、話しの内容や流れにはくれぐれも心を砕く事」
レジュメは相手に今日の話の流れを伝えるとともに、話しが迷走しない様に準備する
「緊張感のある中、笑いを取れ」
これは自分自身30年以上、酪農教育ファーム活動実施してくる中で自然と身についているので、案外簡単
「目を引く試行を凝らせ」
JC現役時代、外部講師の講演は何度も拝聴したが、講師紹介後、歌を歌いながら登壇して来た講師が居たっけ。
「終演時間は厳守」
今回は数分余して終わってしまった。なつぞらでの広瀬すずちゃんとのエピソードを入れれば若いJCメンバーに受ける事間違いなし。
100満点だったのに残念‼️
(講演内容の良し悪し⁈)
(知らん!)
静かな"春"
前回の投稿が"動"の春なら、今回は"静"の春。
我が家の正門脇に、静かな春が訪れを見つけた。
心和む一輪だ。
市内を走って見ると、片側一車線の道路に除雪時の雪山がウネウネと残り、未だにジャンケン道路のままだ。
帯広市は除雪予算を削って、民間の不便さや経済の非効率、果ては災害対策なんか見向きもしない。
除雪体制の杜撰さ以前に、官尊民卑だ。
盛り
暖かいニャー...
若いモンと一緒だと疲れるからニャー
若夫婦達は...励んでいる!
子猫の産まれてくるのは5月17日だニャー(目撃日は今日3月13日だ)。
ワシら大蝦夷農高酪農科出身だから、授精日が分かれば分娩予定もたちどころに分かるんだニャー
ネコは2ヶ月と5日程。約65日後
ニワトリは3週間で21日後の羽化
ブタの妊娠期間は3ヶ月3週間と3日。つまり114日後
ウシのそれは9ヶ月と10日で285日後(1ヶ月毎に31日があるので280日では無く285日となるぞニャー)
ウマは11ヶ月。ブリーディングシーズン(繁殖季節)は春のみで、しかも分娩後1ヶ月で発情がくるので空胎期間は僅か1ヶ月。
ワシらが子供の頃の農家は馬耕、馬搬の馬が主力。必ず2〜3頭の農耕馬を飼っていた。
牝馬の持ち主から種付けの依頼があると、♂馬に乗って出張する、種馬乗りと呼ばれる職業の人がいたにゃー。
春は軒並み出産するので、1ヶ月後種馬はあちこちから引っ張りだこ。
昔むかし、人間界では関取のことを「一年を 10日で暮らす 良い男」なんて川柳が有ったけど、
種馬は1ヶ月がチョー繁忙期!初めウキウキ、後半......⁉︎
「毎春の メス馬相手 もう結構」だったかもニャー
「3月10日」と言う日
今WBCで日本中が大盛り上がりだ。
プールBの日本、中国、韓国、チェコスロバキア、オーストラリアの5カ国が9日から、
東京ドームで予選が繰り広げられている。
大谷翔平、ダルビッシュ有そして日系人のヌードバーを始め、国内で活躍中の若手選手30人の
活躍で新聞テレビはWBC一色と言っていいほどだ。
10日には始球式には、高校時代野球部だったと言う岸田総理が登板し、キャッチャー役には栗山監督
背番号101番の岸田総理の大暴投のボールを追いかける栗山監督
栗山監督がサインしたボールを嬉しそうに受け取る総理
その後日韓戦が始まるのだが、その後の夕食時だ。
96才の父親はおもむろに「3月10日はな、アメリカのB-29大編隊が東京の空から無差別に焼夷弾を投下し
10万人が亡くなった東京大空襲の日だ」と話し始めた。
「その日の夜半から爆撃が始まり、現在の文京区湯島に有った下宿屋の2階の物干し場から焼夷弾が落ちてくるのがよく見えるんだ。
ゴム糊の入った6角型で50cm程の筒が36本束になった爆弾がB-29から数え切れない数が投下された。
その焼夷弾の固りに火が付いたと思ったらタガが外れバラバラになって花火の様になって落ちてくるんだ。
すると間も無く大きな火の手が至る所であがり、あっという間に周りは火の海になって行った。
その夜自身の送別会に出かけていた10才年上の従兄が慌てて帰って来て、博昭何やってる早く布団を頭から被ってすぐ逃げるぞ!
と促され、何とか上野の山まで逃げ生き延びる事が出来たんだ。」
「イヌやネコ、人も腕や足を突き出す様な格好で真っ黒焦げになってあちこちに転がっていた。
又、防空壕で蒸し焼きになったり、隅田川には無数の死体が浮いて居て、兎も角酸鼻を極めた。
火も消え少し落ち着き始めると、死体を重ねる様にして車で運ぶ人。家族を荼毘に付す人。雨つゆを塞ぐ準備をする人。」
、話しはまだ続くのだが...
その日から78年の時が過ぎ去ったが、老父の瞼には決して消え去る事のない鮮烈な映像だ。
昭和20年3月10日はアメリカ軍が無差別爆撃で一般市民10万人を無差別に殺戮した日である事は、
国民の記憶の彼方に追いやられてしまっでいる様だ。
WBCが真の平和の祭典となる事を祈る。