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十二代目 宇右衛門の廣瀬文彦が語る ウエモンのよもやま話

2019年5月21日(火) 06:05

新地さん、いつもコメントありがとう。
北の国から、牛飼い人生応援してます。

さて今日は牛が、テーマ。しかもツルータイプモデルの等身大の模型だ。
数日前帯広市内のつつじヶ丘小学校の生徒たちが、体験を兼ねた遠足で広瀬牧場ウエモンズハートを訪ねてくれた。
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一通り体験が終わり、ジェラートタイム。
思い思いに好みのジェラートを食べながら、体験教室にいる模型の牛に触って楽しんでいる。
この牛は、今話題の朝ドラ「なつぞら」の奥原なつ役の粟野咲莉(主人公なつの子ども時代を演じた)ちゃんと広瀬すず(成長したなつ)ちゃん、山田天陽(吉沢亮君)、柴田泰樹(草刈正雄さん)達が本物の牛に触る前に、牛への近ずきかたや触れ合い、更には搾乳の所作などを練習したんだよ、と伝えた。
するとこの後、俄然子供達の人気者になり乳搾りは勿論鼻の先から尻まで撫で回して(ひょっとしていやらしい言い回し?)いた。

そのなつぞら、昨日から8週目に入った。早いものである。
曲折を経ていよいよなつが上京する事に決まり、昨日のなつぞらでは、なつと菓子の修行に旅立つ雪月の雪次郎、北大に進学する柴田夕見子らの送別会が雪月で開かれていた。
泰樹は牛の世話を理由に牧場に残り、所謂なつロスの寂しさに一人耐えていた。
さて話は飛ぶが、あの雪月での送別会に出席していたなつ、夕見子そして照雄にいちゃんは誰と結婚するでしょうか......⁈
おっと、口が滑る所だった。
箝口令が出ているので、ここではチョットネ、

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2019年5月17日(金) 05:26

なつぞら7週

なつぞら、見てますか⁈
今週はなつが、いよいよ上京の決意を固める週だ。

柴田家の食卓でなつが重い口を開く。
「私、農業高校を卒業して何年かしたら、東京に行きたいと思うの。」
剛男「東京行って、どうしたいのさ?」
なつ「東京にいるお兄ちゃんを支えたいし、妹の千遙も探して3人で、また会えたらいいなって...」
剛男「なんで、そのうちなんだ?...」
なつ「だって......農業高校まで行かしてもらって、まだなんもしてないのに......」
泰樹「その必要はねえ、行きたきゃ行けばいいべ」
「お前に牛飼いさせたのは、わしの勝手だ」
「この家とも関係ねえ......出て行きたきゃ出て行けばいいべや...行くなら、すぐに出てけ」
「お前の顔は、二度と見たくねえ。いつでも勝手に出てけばいい」

なつはいたたまれなくなり、2階の自分の部屋に去り、荷物を詰め始める。

そこに富士子が来て「どうするの?どこ行くの?こんな時間に出て行けば、みんなに迷惑が掛かることぐらい、もうわかるべさ!」
なつ「...ここにはもう、申し訳なくていらんない」
そんななつの頬を富士子は引っ叩き「したら...これで、帳消しにすればいいべさ」
「出てくあんたに、申し訳ないなんて言われれくらいなら、憎まれたほうがよっぽどましだわ...」
「一人で苦しみたいなら...家族はいらないっしよ...」
と言う富士子の胸に頭を付け泣くなつ。

剛男「とにかく...これから、じっくり考えて......なつが自分で答えを出せばいい」

と家族皆が、なつに良かれと思う方向に話しは収まるのだが、

最後に語りで「なつよ......君は肝心なことを、まだ言ってないよな」で、明日に続く...

さて、この語りの言葉は50年前に勝農酪農科3年生に在学していた自分とオーバーラップし、印象深いシーンだ。

昭和41年、義務教育終了直前の中学校3年生の時だ。
来年はいよいよ高校受験で、両親と良く相談して受験する高校を明日まで決めて来る様に!と先生から言われた。
文彦「父さん、担任から明日まで受験する高校を決めてくるようにって言われたんだ。」
父「ほう、それでお前はどこを受けたいんだ⁈」
文彦「うん...」と少し間を置き、しかも言いにくそうに「帯広農高の酪農科を受けようかなって思ってるんだけど...」
父「そうか、それはいいな、頑張れや」

文字にしてみるとほんの一瞬の他愛の無い家庭風景に見える、が、自身が「農高を受けようと思う」この一言を口に出す前後には、自分の一生を左右する程の最大級の葛藤が心の中に渦巻いていた。

昭和39年中学校に進んで初めて英語に出会った。担当は木村徳広先生。
「ジス イズ ア ペン」「ジス イズ ア ブック」「ジス イズ アン アップル」と決して発音が素晴らしいとは思わなかったが...
しかし少年文彦はこの英語と出会い、ララミー牧場やローハイドなど広大な西部劇の舞台となっていた憧れのアメリカをバイクで縦横に走り回ってみたいとの思いに火がついた。この3年間は必死になって英単語を暗記もした。そして英語を自在に話せるようになりたいとの思いは強くなるばかり。

そして、件の高校受験。本心は普通高校に行ってもっと英語の勉強をしたかったのだが...!その事を言い出せずに、農高受験と相成ったのだ。

良い子を演じて本心を隠したばっかりに、自分の心に偽らず酪農に専念できる様になるには、後10年の時日を要したのだ。25才まで待たなければならなかった。この間家族、親戚には本当に心配、迷惑をかけてしまった。いや、一番迷惑を被ったのは罪のない牛達だ!!

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2019年5月 7日(火) 16:30

今日のなつぞら

なつぞらが始まりもう6週のしかも2日目。
いよいよ十勝の冬バージョンに入った。
自然の厳しい十勝らしさ全開!と思いきや...

昨年秋、なつぞらの冬の映像はいつ撮るのがいいか、撮影の窓口になっている帯広観光コンベンション協会にNHKから相談があった。

協会側は、十勝は北海道でも雪の少ない地方で、ホワイトクリスマスにならない事もままあるので、1月下旬から2月に掛けてなら間違いなく一面雪野原になっていると思います!と返事をしていた。
生粋の十勝人である自分も、そうそう2月前後なら間違いない!と太鼓判を押していた。

あの撮影は1月26〜30日に掛けて陸別町や新得町で撮影されたのだが、この冬の十勝は記録的な少雪。一冬を通して積雪ゼロの日が続き、撮影当日も周辺の草地も枯れた草が見える状態での撮影で、通路や建物の屋根の下には僅かな雪を集めて、苦労して冬景色を演出していた。

現実の酪農現場では雪は邪魔者。稀に見るスッキリした越冬風景だったが...
しかし、この少雪は畑作農家に取っては功罪相半ばと言った所だ。例年ならば、雪割りをして野良芋を凍死させ雑草化を防ぐのだが、これは作業が省略出来てよかった。しかし長イモを春堀の為、畑で越冬させていた農家にとっては凍結深度50cm以上という事で、頭の部分は全て切り捨てなければいけなくなり、結果傷物ばかりとなってしまった。
撮影のみならず、農業が相対峙している自然とは、げに恐ろしいものだ。如何に上手に付き合うかが、プロのあり様だ。

さて、十勝人として気になるのが、この物語で、勝農や雪月の所在地は帯広だが、なつが育つ柴田牧場のある「音問別(おといべつ)」は何処なのかと言う事が興味深い所だ。

今日の映像の中で、なつや雪次郎は勝農へ、夕見子は帯広の進学校に行くと言う事でそれぞれ反対方向の軽便鉄道、トテッポ(十勝鉄道)にのる風景から比定出来るのではないか。
雪次郎が勝農とは反対方向の帯広にある進学校に向かう夕見子を見つけ、列車の窓を開けて叫ぶシーンだ。
私の様な古い十勝人なら、そのトテッポは帯広から南進し、記念碑前、日本甜菜製糖、勝農、川西、富士、そこから分岐し片や帯広川に沿って上帯広、広野、八千代迄。片方は清川、戸蔦まで延びていたことは誰でも知っている事だ。
さて、改めて雪次郎が反対方向に向かう列車の夕見子に向かって叫ぶシーンを思い出して下さい。
夕見子が通う進学校の有る帯広と、その郊外に有る勝農に向かうなつや雪次郎。
それは反対方向だ。

つまり、音問別は勝農と帯広の間に有る町だ。
ホント⁈
十勝の然も酪農がテーマの「なつぞら」
地元民ならではの楽しみ方だ!

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2019年5月 6日(月) 10:05

老境

病を得、半分療養生活を余儀なくされている昨今、辺りの風景を見るとも無しに漫然と目を開いている事が多くなった。

ホスピタルパークの小さなせせらぎを見ていると、60年以上にもなる昔の自分が見えて来る。近所の沢を流れる小さな川で、男の子はパンツひとつ、女の子はシュミーズになって、浅いその流れに腰を落として水の掛けっこをしたり、川底一杯に広がる真っ黒な「カラス貝(ムール貝のような)」を手ぬぐい一杯にして持ち帰ったり。厳冬期には長靴の底にガッチャスケートをつけ、スケーティングの真似事をしている、無邪気な自分だ。

ホスピタルパークの外周にはイロハモミジやスダジイと言った広葉樹が、程良い間隔で植わっている。その木立に見え隠れしながら走って行く路線バスがあるのだが、このバスを見ると幼稚園の頃祖父種治に連れられて帯広の街に行った事も思い出される。これも60年以上前の事。
ある時には日本書紀或いは古事記を映画化したものを見せてもらった。
ムラで大暴れするすさのおの尊がムラを追い出されるも、ヤマタノオロチを退治しその尾の部分からツルギを取り出す。その劔を携えて旅をすると、周りの枯れ草に四方八方から火をつけられるも、その劔で自分の周りの枯れ草を刈払い事なきをえる。
またある時は、天の岩戸に隠れてしまった天照大御神を歌舞音曲で扉を開けさせ、鏡に映った自分の姿を見ているところを手力男の尊に岩戸を開けさせ、陽の光を取り戻す
いずれも天皇の象徴である草薙の剣に八咫の鏡だ。勾玉玉の事は思い出せない。
街に出る度に、三平ラーメンを食べたり、伊豆屋のパンを店先で食べたりもした。今でも外食が好きなのはこの時からの習い性か⁈
ある時は何処かの個人宅を訪問した時の事。祖父種治は玄関先で「じいちゃんの事をじいちゃんって呼ぶなよ」と、今思えば謎の言葉をかけられた後、来意を告げるようにその家のその家の戸を叩いていた。
遠くを見る事が多くなった!

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2019年5月 1日(水) 18:53

どこでもdoor

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昨日平成が終わりを告げた。

平成31年4月30日、退位の儀に臨む、平成天皇
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そして令和元年5月1日、新天皇の即位
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放送各局がこぞって5月1日午前零時を持って、元号が平成から令和に代わると言う歴史的瞬間を特集していた。
NHKなどは年末恒例の「ゆく年くる年」をもじって、「行く時代くる時代」などと言う、駄洒落ともつかない番組を特集していた。中身を見ないで批判するのもどうかと思うけど、自身見る意欲が無くなったのも事実だ。
昨日までの「平成最後の...」から一夜明けると「令和最初の...」と大騒ぎ。
何か5月1日午前零時を持って何かが変わる、そんな風な空気感が日本中を覆っていたのだ。
しかし、過去の改元で見ると、文久、元治、慶応で徳川幕府の江戸時代が終わり、明治と言う近代が始まり、巷では「御一新」などと時代の変わり目が強調されてもいる。
しかし、例えば散髪脱刀令(髷を禁止した訳では無く髪型を自由にして良いと言う意味)が出されたのは、改元から4年後の事。
又、現在のような新戸籍制度や近代的学制が始まったのが明治5年。とそれぞれ数年を経て変わり始めている。
因みに、わたしから見て4代前の廣瀬卯右衛門は、明治45年に61才で亡くなるまで髷を結っていたそうである。
第二次世界大戦(太平洋戦争)も日本が降伏したのがS20年8月15日だけれども、その1週間前の8月9日に日ソ中立条約を破って千島や満州にソ連軍が攻撃して来て、その15日のポツダム宣言を受諾したにもかかわらず戦闘は終わらず、どさくさに紛れて15日以降に占領された北方四島の帰属問題を、未だに引きずっている。
平成から令和。明治維新然り、太平洋戦争然り。
豈図らんや。かく言う自分も、澤先生から「平成最後の入院で病状をリセットして帰られたら...」と言われ今回の検査入院となった。しかし、心配な部分も見つかり、結果、令和にまたがる入院となってしまったのではあるが。
つまり、すべからく人生や時代と言うものは、ドラえもんの言う「どこでもドア」にはならないんだなぁ。

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