この母・・
今日の辛夷の咲き具合・・・・・?フゥ~ム、良くわからん、もう一枚。
エゾ松の緑を背景にした部分の辛夷の枝先に、白い可憐な花がびっしり・・・・・。帯広の街中ではエゾ山桜があちこちでピンクの花が開いています。標準木というものが花開かないと開花宣言が出ないんだよね・・・
ウエモンズハート周辺の景色でした。
さて今日は違う話題です。息子夫婦が牛舎作業をしている時間の先ほど、孫が居間の手押し車に寝かされていました。父がお通夜に出かけるため母と共に自分達の部屋に行った30分後くらいに孫が目を覚まし、「誰もいない・・・」と言わんばかりに大きな声で泣き始めました。手押し車を前後に揺すりながらあやして見ましたが、目を開けるたび私の顔しか見えず、本当に心細そうに泣く、泣く・・・・。
15分くらい経って母(私の)が戻ってきて、優しい声で「どうしたの?おじいちゃんが(私のこと)いるしょ。さ、さ、寝なさい、ネンネンよ~、ネンネンよ~」と背中をさすってあげると・・・・ア~ラ不思議、直ぐ寝てしまうではありませんか。
まだまだおじいちゃん修行は始まったばかりと心の中で言い訳をしつつ、自分はこの母から生まれてよかった・・・!
城之崎温泉
平成26年9月(頃)、京都での催事が終わった後、家内と二人でレンタカーを借り日本海側の京丹後市を目指しました。そこには平林衛さんと言う友人の牧場があり、私どもと同じようにジェラートショップ「そら」を経営しています。一日目は近くの間人温泉(たいざ温泉)旅館"炭平"に宿を取りました。海岸の高台にあって部屋、そして内湯からは日本海が一望できる素晴らしい温泉でした。
翌日丹後半島を一周して入り組んだ海岸線の変化に富む風景を満喫し、天橋立も行きました。そしてその橋立を一望できるロープウエイにも登って来ました。その夜は城之崎温泉に宿を移し、平林さん一家と食事をともにしました。到着後一風呂浴び、城之崎の温泉街を案内してもらいました。そこで出会ったのが・・・・この文箱です。
これは所謂藁細工だそうです。何処が藁?と思いますよね。箱の材質は桐です。上面、横面が藁の茎を広げて乾燥し着色したものを貼りつけてあり、鶴や松は所謂"象嵌"です。これは城之崎の伝統工芸で他の地域には見られないものだそうです。製作者は・・・
製作者は神谷勝さんと言う方です。少しピンボケですが、これは城崎町の指定無形文化財になっている様です。
右は私のものでA4のペーパーが充分に入る大きさです。左の桔梗に名が入っているのが家内のオーダーしたもので、一年半ぶりに届いたものです。
何を入れようかな・・・・
思わず・・・・
今朝道新のページを繰っていると、こんな新聞広告が載っていました。
そうです。おなじみの"AC JAPAN"の広告です。なんの屈託も無く母の胸で、幸せそうにしている女の子の写真です。
その右上のほうに言葉が書かれていて、何気なく読んでみると・・・
王子様も
お姫様も
キリギリスも
太陽も
お化けも
魔女も
オオカミも
みんな やさしい 声でした。
母に抱かれた幸せそうな女の子がまず目に飛び込んできて、次にこの文章を読んで、そしてこの最後のフレーズ、「みんなやさしい声でした。」で、体中の水分が目の周りに集まり、思わず涙が・・・・(加齢現象か??)
幼少の頃、今は亡き曾祖母、祖父、祖母、そして高齢になった両親。叔父、叔母、全ての人の優しさに育まれて今の自分がある!と思うと、本当にありがたく、心が満たされる想いです。
新聞では毎日様々な事件が報道されています。が、その当事者達も純真無垢で親や家族に愛された時期が必ずあった筈です。敵対している人たちにも猜疑心、敵対心、不信感、頑なな心を横に置き、少し手を休めて、この写真、言葉を噛みしめてみてほしいものです。
春を拾う2
何だこれ?何が悲しくて、枯れ枝の写真をアップしているの・・・?と言いたい気持ちは良くわかります。が、良~く枝先を見てください。白い物がチラホラ・・
もう一枚アップしてみます。
オォ、この写真なら目に付くと思います(なんも変わらん、なんて切り捨てないで下さい)。左の大木から右上のほうに延びている枝先を見てください!
そうです北海道の早春を象徴する辛夷の花です。昨日とは打って変わって寒さが身に染む今日、けなげにも辛夷の花が咲き始めました。嵐雪の句「梅一輪 一輪ほどの暖かさ」ならぬ「辛夷一輪 一輪ほどの暖かさ」です。今は亡き叔父が中学生になった頃と言いますから昭和24~25年に近くの藪から掘って来て植えたものなので、樹齢75年位になりますか。
父は、辛夷の花の付き具合でその年々の畑の豊凶を占っています。その言を信じれば今年は花の蕾が少ないような・・・・
今度は満開の写真もアップします。
大日本帝国陸軍遺産Ⅰ
住所で言うと帯広市西22条南5丁目。と言ってもピンと来る人は殆どゼロだと思いますが・・今を去る事75年前の第二次世界大戦が始まる前後、日本陸軍航空隊熊部隊の飛行場が(現在の自衛隊第5旅団のある位置)敵機に空襲されることを懸念して、弾薬等を分散保管していたそうです。
しかも空から見えにくい場所に保管したそうです。その現場に通じる道路が次の写真です。
70年近くを経て道路であった所にもご覧の通り大きな木が生い茂っていますが、今でも落ち葉を掻き分けてみると砂利を敷いた立派な(?)道路が確認できます。帯広川の河岸段丘になっているこの裾野に沿って道路を取り付け、奥まった所の崖に横穴を掘り武器、弾薬を保管していたそうです。その横穴は敗戦時爆破され裾野がえぐれたかんじで窪んでいました。高台は畑、下台は水田ですが、その狭間の傾斜地は自然の林の儘で空からは見えにくいその部分に道路を付けたようです。
長い年月を経て木や笹に覆われて写真では分かりにくいんですが、画面の端から迫ってきている高台の裾野を削り道路を開削したものです。
日本が世界を相手に世界大戦を戦ったことすら知らない世代が増えてきている今、軍都帯広の軍事遺産を記憶にとどめてほしいと思います。
この場所は今は帯広市の所有する帯広の森として整備されていて、その中を縦横に散歩用やジョギングの為の道を取り付けています。22条5丁目の部分は今後整備する予定のようなので、その軍用道路を再生整備して利活用と保存をしてほしいものです。
なんとも分かりにくいのですが・・・・
今度は遺産Ⅱとして掩体壕をアップしてみます。請う、ご期待を!