石垣島
旅の始まりは6月15日。
三男家族とは羽田空港第一ターミナルで合流、
石垣行きは午後3時前と、乗り換え時間が充分あるため、子供達の腹ごしらえからはじまる。
約3時間のフライト。南西諸島の海域に入ると、島影が見えるとポンポン蒸気船の様な雲の連なりがなんとも言えず面白い。

自然の織りなす造形は、飽きる事をしらない。
さて、初日は先ず投宿先に辿り着くのが目的。
石垣空港に到着し、直ぐに予約してあるレンタカー屋さんに直行
石垣市内のホテルにチェックイン。
そして夕食は、5才と2才の孫連れなので、食料品や飲み物を買い出し、部屋食にする。
孫達ものびのび、そしてゆっくり食事を楽しみ、石垣の夜は暮れていくのでした。
弔事
21日午後4時半頃羽田空港に到着。
午後6時から東京御徒町の吉池食堂で、酪農専門組織の専務の退任慰労会が開かれ参加して来た。
その宴もたけなわの7時半過ぎ、一番下の妹から電話が入る。
胸騒ぎを覚えながら電話に出ると、やはり何かが有ったかと思わせる声色で
「たった今、岩田さんが亡くなったよ」との第一声だった。
岩田隆一。すぐ下の妹の旦那で、義弟とは言えオレより6才も年上でありながら、フットワークも軽やか。
我が家にとっては、機械の潤滑油のような、つまり義理の兄弟、家族間の良好な関係を維持してくれる人だった。
翌22日、飛行機便は満席で変更も出来ず最終便で帰着。
そのまま葬祭場の家族控え室を訪ねる。
もう午後9時。
妹と長男に出迎えられ、夜具に安置されている岩田さんに手を合わせ顔を覗き込むと、
いかにも安らかな顔で、今にも目を開いて「いやぁ、つい寝過ごしちゃった。ゴメン、ごめん」とでも言い出しそうだった。
23日、通夜の開式前に99才の老父(我が父博昭)が、オレからもお経をあげてやりたいと祭壇に向かい正信偈を唱える。

そして24日葬儀。49日繰上げ法要も済み、無事天国への旅出を見送る事が出来た。

安らかに。
ほぼ初めて、のANA
帯広を15日に発ったので、8日ぶりにこれから戻るところ。
今羽田のANAの搭乗口に着いた。
しかし、51Aまでは兎に角遠い。1km以上は歩いている。
幾つになっても未踏の地には行きたいものだが、乗り換えの為の移動距離は想像を絶する。
話しは変わって、昨日昼石垣から約3時間弱を要して羽田に移動したANAの機体はイエローボディだった。
「C-3PO JET」と言ってスターウォーズに登場するC-3POをモデルにしているらしい。知らんけど!
その3時間弱の移動は、1,200kmの南西諸島沖を北上。
九州から日本列島の南岸を飛行し、2時間後、富士山が見え始めた。
伊豆半島の先端を迂廻して更に進む
すると今度は伊豆大島が見え始め、高度も下げ始める
更に東京湾入り口を東に進み、房総半島を北上し、都心上空から羽田空港に進入するのだが、
懐かしいフジTVのビルが左手に見える
そして孫達との石垣の旅は終わりを迎えたのだ。
石垣島Now
「今、石垣島!」
と、言っても今日昼頃の飛行機で東京に戻る予定。
今回の旅は、思いがけず三男一家に誘われ実現したものだが、以前からチャンスが有れば訪ねたいと思っていた
離島行きが実現した。
旅の様子は後ほど......
最後かも
12日昼前札幌に向けて出発。
車に乗り込みシートベルトを締めいざ発進。
玄関先に続くわずかばかりの並木道から六線道路に出ると、出穂期を迎えた秋蒔き小麦の穂波の
風に揺れるのが目に飛び込む。
視線を遠くに投じると、広々とした畑と綿雲が点々している真っ青な空。

十勝の豊かさを感じる大好きな風景だ。
今回の出札の目的は、翌13日午前に予定されている酪農学園大学の実践酪農学の講義の為だ。
午前の3.4講の一時間半の受け持ち時間だが、貴重な学生達の時間を無駄にならない様講義の起承転結を整理するため
静かな環境に前泊し、頭の中に詰め込むのだ。

しかし、この実践酪農学は今年で一旦終了と言う事らしい。
もう20年続く講座で、初回から携わっていたオレとしては少し寂しい気がする。





