秋たけなわ
ウニ?
ウニじゃ無くてクリ!
ワンコイン!¥500でウエモンズハート店頭で販売。おじいちゃんが収穫袋詰めし、500円はおばあちゃんの懐に!これぞ「お袋」か⁈
皮をむいて、クリご飯、甘露煮にして頂く。
勿論、ウエモンズハートではジェラートになる。今月のおすすめだ!
人生の課題
10/4付道新4面のニュースから。
「道産木材 蒸して牛のエサ」
「甘み増し食欲アップ/繊維質も豊富で消化良し」
「余った木材の有効活用にも」の文字が踊り目に止まった。
原料となる木材は白樺が想定されている。なるほど、シラカバの樹液はほんのり甘く、市販されている位だからうなずける。しかし、牛が食べるの?と言う問いには、木材を砕いた後圧力容器内で約180度の水蒸気に20分程当てると、糖類を覆っている高分子の物質を引き剥がし糖類を取り出す事で嗜好性が高まり、増体も確認されたそうだ。今後トドマツ、カラマツ、ヤナギなどでも実証試験を続けるそうだ。
9/7付けの新聞には新たな集成材の利用法が載っていた。
利用量が少ないカラマツなどの板をたて横に貼り合わせる事により、より強度の増した木材が作られ、三階建ての建物などにも十分利用出来るし、欧米ではより高いビルにも使われているらしい。
話は変わって、2、30年程前からクリーンエネルギーと名付けた安い電力を使ったオール電化住宅の建設が売出されていた。しかし、東北大震災により福島原発が崩壊。原発の安全神話が崩れ、国内の原発が全て停止された。原発の是非は置くが、原発停止を境に電力料金が8割程値上げされ高止まり。オール電化住宅は建築主の重荷になっている。そこで注目され始めたのが、下川町や足寄町が取り組んでいる燃料としての木材ペレットだ。
いずれも、放置されている森林資源の見直しとさらなる利用促進が期待されるが、50年60年先を見越して造林事業に手をつけた父親の慧眼には感服する。
後はそれらを引き継ぎ如何に守って行くか。
大きな課題を与えられたものだ!
京都探訪、最終回
京都探訪。
今日で最終回にしよう。
前回は、第二次世界大戦で供出された蓮如上人の銅像の台座の写真で終わった。
山科中央公園の中にある山科本願寺の土塁跡だ。
ここは本願寺ノ城と呼ばれ、文明15年(1483)山科本願寺南殿跡に作られたが、天分元年(1532)の日蓮宗徒らの襲撃に遭った。
その昔、山科本願寺は周りに堀や土塁を築き、寺内町を形成していて本願寺ノ城と呼ばれていた。天文元年の日蓮宗徒らに破却された南殿跡に1536年建立されたのが、泉水山光照寺だ。
次は放鶯山西宗寺。
この寺は蓮如上人御往生の地だ。山科野村郷西中路の名主で地侍の海老名五郎左衛門信忠が浄土真宗に帰依。土地を寄進し蓮如上人の弟子となり同寺を建立し浄乗と名乗る。
飲用生活水が無く困っている村人達が、蓮如上人が指し示した所を掘ると、コンコンと水が湧き出したと言う井戸だ。
我が家の系図の言う「山科の里」は当時、寺内町と言われる城郭都市を形成していた所で、今回訪れた寺院などは極めて近い所に位置していた。しかし、道は狭隘で入り組んでおり、しかも地理に不案内と来れば自分の足だけでは到底回りきれなかっただろう。
これで山科の里探訪を終え、京都駅間近にあるお東さん(東本願寺)にお参りして今回の旅を締めくくる事にすべくタクシーに乗り込む。
山門の表側は交通量の多い道路に面していて画面に入りきらず境内から写す。
これは見真大師(親鸞上人)の堂で、内部は撮影禁止だ。
左手奥に見えるのが、阿弥陀堂だ。見真大師堂から見ると規模は半分くらいだ。
自分自身今年65才を迎え高齢者の仲間入りした。
今回の阪大病院で先端医療を受け、失われたはずの老後を取り戻すことが出来たお礼と、然し乍ら平均寿命も残すところあと15年余。
旅立つ時には迷わず成仏できるようお願いもした。
最後は渉成園。お東さんの管理する公園だ。
渉成園の全景
午後2時過ぎ、新幹線で東京に向かう。
大谷祖廟始め歴史のある仏閣は兎に角境内が広い。かと言ってその中をタクシーで移動など以ての外。また、本願寺の土塁跡も階段で30段程の高さだけれど、いずれも早足は無理としても息切れせずそれ程身体への負担も感じる事は無かった。
拡張型心筋症と診断され、余命も5年と宣告されてから丸3年。昨年10月に体調崩し帯広厚生病院に入院してからほぼ1年の間曲折を経、先端医療を受けられる幸運にも恵れ、老後を取り戻した事を実感した、中味の濃い京都の旅だった。
ナンマンダブ、ナンマンダブ、...
続・続京都探訪
さて京都の続きだ!
翌8月28日朝、山科の地を訪ねるべくタクシーが迎えに来てくれた。時間4000円だとか⁈心臓病で弱った体に無理のない様家内が用意してくれたのだ。
畑中のロビーでタクシーの運転手さんに訪ねたい所を伝えると、「お客さんはお寺関係の方ですか?」と聞いて来た。どうしてですか?と聞くと「親鸞さんとか蓮如さん関連の寺院を回りたいと仰られるので...。以前にも天台宗関連ばかり回られたご住職の方がいらっしゃったんですよ!」と言った会話から寺院行脚が始まった。
コース採りは運転手さん任せだ。
畑中の有る祇園から山科までは約30分ほどの距離で、初めに蓮如上人ゆかりの「山科本願寺」を訪ねる。
元々東山にあった大谷本願寺が寛政6年(1465)に比叡山の僧徒(天台宗)破却され、文明10年(1478)金森道西の寄進を受けこの地に坊舎を建てたのが始まりで、3年後に松林山山科本願寺となる。
更に天文元年(1532)再び日蓮宗徒、比叡山僧徒らに襲撃、破却され本願寺は大阪石山(現、大阪城)に移り荒れ地のまま放置される。
そして200年後の享保7年(1732)から50年をかけ、蓮如上人廟を管理するま為山科本願寺がつくられる。
次は蓮如上人御廟所だ。
この廟所は、明応8年(1499)上人が85才で臨終を迎え、葬送、荼毘に付された地だ。
次は、山科別院長福寺(東御坊)。
文明10年(1478)、蓮如上人が創建し京都本願寺、野村殿御坊或いは野村殿と呼ばれていたが、山科本願寺と同時に(天分元年)破却されてしまう。
この長福寺は、享保17年(1732)東本願寺境内から移築される。
次の写真は、蓮如上人の銅像の台座だそうだ。
今迄見て来た寺院は、他宗派との争いであったり、信徒を急激に増やし強大な宗教集団を警戒する時の権力と戦いの歴史である事を痛感させられたが、この台座からは、第二次世界大戦時蓮如上人像が金属であった為他の鍋釜や寺の梵鐘と同じく供出の憂き目にも遭っている事が知れる。
長くなり過ぎ疲れてきました。
残りは後刻...
続・京都探訪
数ヶ月前、手持ちのiPhone 6からウエモンズハートのブログに投稿する方法を優秀な?スタッフに教えて貰い、阪大病院に入院しました。
難病と言われる拡張型心筋症の闘病の様子を知って貰おうとの思いで投稿していましたが、写真が搗き立ての餅の様に伸びたりひしゃげたりと随分苦労を重ね、いっぱしのブロガー気取りで居ました。最近漸く店の事務所に出入りし始め、HPをパソコンで見てみると...⁈何と、写真の多くは横倒しじゃないか!
またまた件の優秀な?スタッフに教えを請い、修正の方法をくどいくらい教えて貰いました。しかしだ、覚えの悪いオレに「社長!大丈夫です。今まで通りブログに投稿してください。その後で繰り返し修正作業をユックリ教えますから!」。(優しいだろ、ウエモンズハートのスタッフは⁈ん?忙しいのに、覚えの悪い奴には付き合っている時間が勿体無いってか!)
てな事でHPのブログでは写真が横倒しになる事が多々あると思うけど、直に修正されると思います。悪しからず‼︎
さて、京都の続きに入ります。
前回は我が家の系図の記述に沿って、京都の寺社を尋ねたと書きました。
先日の写真の再掲載です。
この系図の5行目。
「北方村天上寺空善法印ノ許ニ来ル」とある「天上寺」とは、揖斐川町坊島にある「上善明寺」の事だ。
13行目。
「文明ノ季年空善法印ノ法流ヲ受継...、家胤則法号ヲ空道法印ト名付タマフ 下山之砌山科ノ里二本願寺家八代ノ蓮如上人ノ法談海内二無比類...、信悟、帰依シ春光坊ト名付タマフ...」
この文章から廣瀬家初代家胤が始め天台宗の坊さんになり、蓮如上人に出会い浄土真宗に帰依した事が分かる。
この家胤が、親鸞上人が開いた浄土真宗に蓮如上人本人を通じて出会い帰依したと言うこの故事から、両上人の足跡を歩いて見たいと発願し、京都の旅は始まったのです。
親鸞上人のお導きか偶然か、親鸞上人のお墓大谷祖廟のすぐ隣の「祇園畑中」に宿を取っていた。
右手が畑中の玄関先。まん中の巨木を挟んで、左側が参道だ。
参道に踏み込んですぐの右手に木の間から「祇園畑中」の建物が見える。
緩やかな登り勾配で曲がって見通しのきかない参道を進むと、山門が見えてくる。
あの山門の向こうが廟域か。所謂彼岸と此岸だ?
この山道は400m程有りながら勾配も緩やかで、心臓病のオレにはすごく優しい。親鸞上人が益々好きになる。これが信悟、帰依するというのか!
山門を入ると20段ほどの階段が右に折れて登り切り更に進むと左手に廟が見えて来た。ん?なんか変だ...
黒の漆地に金の飾りの施された廟が、神々しく佇んでいるのにその前面にテントがかかっている。何の為?艶消しだ‼︎
それにしても、神々しいを通り越して輝き過ぎ!
廟所を通り過ぎると右手に下りの階段があり、そこには親鸞の末娘で、親鸞の死を看取り葬送と拾骨を取り仕切った覚信尼の詠んだ詩の石碑も有った。
なんて書いてあるのか、達筆すぎて読めない!
京都に到着して直ぐ親鸞上人の廟を訪ねる事が出来、明日からの探訪に備えて畑中での美味しい夕食を頂く!