春の足音・・
ウエモンズハートも今年度3月1日にオープンし3週間目を迎えております。
例年、正月直前から2月いっぱいお休みを頂いています。そしてオープン初日は「もしかして、お客様に忘れられているのでは!」と恐る恐る開くのが常です。今年もそうでした。しかしいつも杞憂だったと思う反面、お客様のウエモンズハートを応援してやろう!と言う心が嬉しく感謝申し上げます。今日も好天に恵まれ途切れることなく、しかし混み合う事も無く?お客様が来てくれています。本当に有難うございます。
今年はオープン直前の2月29日には70センチの降雪があり総積雪量も1.2mほどあり、オープン当日は吹雪でしたが、やはり3月。日は長くなり、気温も確実に上昇しています。そして畑もあちこちで顔を見せ始めています。
画面手前が融雪材を散布していない畑でまだ30~40センチほどありますが、奥の方に見える畑は融雪材を散布した畑で、スノーモービルの走った跡が分かるような雪の融け具合です。私が子供の頃はスコップを担いで硬雪の上を目的の畑まで歩いて行き、スコップで穴を掘り、凍った土を少しずつ掬い穴を中心とした半径5~6メートルに撒き散らし、また移動して・・・と言う具合に大層重労働でした。が、今はスノーモービルや雪上車で私どもにとっては隔世の感です。
ではどんな畑に融雪材を散布するのでしょうか。
この畑は小麦畑と長いも畑です。
小麦畑は融雪が遅れ雪の下で地温が上昇し始めると大粒菌核病に罹り収量が激減してしまいます。牧草も禾本科のオーチャードと言う草が菌核で収穫皆無と言う事もありました。また長いも畑は春掘の畑で掘り終わった後の作付けに影響が出ないように早めに掘り取るためです。何しろ一年に一回の作付けと収穫ですから、適期適作を守るための努力でしょう!!
この写真に見える緑色の縞模様は長いもの畝です。このように雪が溶けても雪解け水が引いて乾かないとしごとが出来ません。
昔は畑作農家といえば出来秋にしか収入はありませんでしたが、今は長いも(高価格で取引される)の春掘りがあり、裕福な事この上ありません。羨ましい限りです。
そのほかジャガイモやビートの移植する畑にも融雪材を散布したりします。その点酪農家は余り融雪材の散布はしませんね。
専門委員会1
14日午前10時から第4回酪農教育ファーム専門委員会が開かれ、上京して来ました。

当日の式次第です。内容はすっきりサッパリしたものですが、過去4度に渡り議論を重ねてきたもののとりまとめで、ここで決められた事が3月31日の推進委員会に提言されると言う流れです。参加者は以下の通りです。
全国から酪農教育ファームの推進に尽力されている先生や指定団体、酪農家が集まった専門委員会です。
平成10年に、国際的な乳価格水準が求められる時代に突入し、価格競争に負けずに・・・と言った生産的な価値のみで酪農を見るのではなく、非生産的な価値(存在自体に価値がある牧場)の創造に着手しようと言う事で、当時小学3~4年生の社会科の産業についての学びであったり、ゆとり教育の中で生み出された総合的学習に牧場を利用してもらうため、酪農教育ファーム活動の目標を「酪農体験を通して、食といのちの学びを支援する」と決めて推進して来ました。
しかしこの活動が広まれば広まるほど賛同者が増え、現在約300の牧場が認証を受け600名ほどのファシリテーターが活躍している中で、食と命しか語れない認証牧場が増えてきて活動の範囲が非常に狭められて来ました。例えば「食や栄養」にまつわる話であれば各校に配置されている栄養教諭の専門分野でそちらに任せたほうがより効果的な授業になるでしょう。また「命」についての酪農家の話題提供には限界があることが見えて来ました。
そこで、ひとつひとつの牧場には消費者に伝えたい事があるはず。それぞれの牧場の立地条件により生産する上で10牧場に10色の苦労や喜びがあるはず。そういう苦難を乗り越えて牛乳(食糧)を生産している苦労を伝える事が大切なのでは・・・、と言う事で、見直すための専門委員会が召集されました。
結果、対象は小学や中学生のみならず、大学から一般の人たち(つまりすべての人たち)迄とし、限定を取り払いました。
そして活動目標は「酪農を通して、食やしごと、いのちの学びを支援する」、と決められました。
その思いはまず、体験を取り外し(BSEや口蹄疫などの防疫の為)、出前授業や牛を使わない牧場体験も全てOK!
そして「食と命」から、「食やしごと、いのち」と活動や体験の広がりを意識した活動目標にしました。
今後10牧場10色の教育ファーム活動、300牧場あれば300通りの体験(多様性)が出来るようになれば大いに発展して行くものと思います。
LONG LONG AGO
昔、昔のその昔、十二代ウエモンさんは帯広市立西小学校に続き帯広市立第二中学校を卒業したのでした。成績の程は全く不明ですが、過去に一度だけ成績優秀だったと褒められた事がありました。それは26歳の時の自身の結婚式での新郎紹介の時でした。仲人さんに「新郎の文彦さんは学業優秀で・・・・」と言われたそうです。そういえば祖父(種治)の言によると誰でも人生二度褒められるそうです。一度目は結婚式、二度目は自分の葬式(これは自分では聞けないと思いますが、多分・・)だそうな。
この西小学校は歴史が古くは伏古小学校と呼ばれ、明治30年代までさかのぼる事ができます。私が入学した当時は木造平屋建てで、全校で350人くらいいたかな!?
これは二中の校章です。
西小学校は昭和39年、二中は昭和42年に卒業しました。
そうそう、今日は私の履歴をご披露申し上げているわけではありません。前置きが長くなりましたが、今夜6時からバイプレーンでクラス会が開かれます。当時2クラス62人の卒業仲間がいましたが、今日は27~28名ほど集まるそうです。全員がもう前期高齢者!それぞれの顔識別できるかな?はたまた識別してもらえるかな?白髪、ハゲ、皺、中年太り等‥
3.11
東日本大震災が起きてから今日で5年目を向かえると言う事で、ここ数日は震災後の復興の進捗状況や津波は天災だけれど人命の被害は人災では、と言った検証についての放送番組が相次いでいます。
今日の内容とはかかわりのない写真ですが、これは襟裳岬です。今日は海の話題と言う事で、イメージ写真です。
十勝・帯広は内陸の地方なので、帯広から100キロほど南に位置する襟裳岬に行くこともちょっとしたドライブ気分を掻き立ててくれる場所です。バイク通学をしていた高校3年(17歳)の初夏(土曜の午後家にも帰らず、親にも内緒で・・)、友達のバイクの2台で襟裳岬に初めて自力で行きました。山と川しか見たことのない少年にとって、ズーット沖まで続く岩礁、奇岩に目を見張ったものでした。岩礁の近くまで降りて行くと繰り返し押し寄せる力強い波の音が心に心地よく入ってきたことを思い出します。
黄金道路の途中ところどころに、崖にへばりつくように漁師の集落があり時には、昆布が干してあったりと、海を糧に生活を営んでいる事に驚きながら岬を目指しました。規模は比ぶべきもありませんが、こんな所に5年前のような津波が押し寄せてきたら、一瞬にして根こそぎ生活のみならず命まで奪われてしまうんですね。
三陸地方は1000年以上に亘って何度も大津波を経験し、それぞれの年代に起きた大津波の際、津波の到達した位置を知らせる石碑が高台の中腹にいくつも建てられているようでした。そういった過去の悲惨な経験を後世に伝える石碑があったにも係わらず、今回のような大きく悲惨な被害が出てしまいました。後智恵で物を言いますが、少なくても職住分離をするとか常日頃避難訓練をしておくとか出来なかったのでしょうか?
翻って小さな話ですが、我が家は北海道に移住し百姓を続けて四代、ほぼ100年になります。それぞれの代には25年とか30年の百姓と言う苦労や経験を積みつつ次世代にバトンを渡して来ましたが、なかなかバトンが上手く渡せないと言うか受け取ってもらえないと言うか、オレが!!と言う自意識が強く世代交代のたびにギクシャクしてしまいます。
なかなか先代の苦労して得た経験は伝わらないものです。
恐れていた事が・・・
3月3日に「お買い得品」と言うニュースを載せました。
離農した農家から買い取ったこのトラクターです。
3月2日に引き取りそのまま整備工場に入れて点検をしてもらいました。今日結果が出て、クラッチが磨り減っているようで交換しなければならないような状態です、とのコメントでした。キャビンつきなのでキャビンの脱着料を含めると相当な金額を覚悟しなければならないようです。トラクターは捨て値のような価格で貰ってきたので、まあいいか!?とも思いますが、何か釈然としない気持ちが・・・・





