深夜の電話
今朝未明、家内の携帯がけたたましく鳴った。午前1時半過ぎのことです。
「今、家が潰れちゃった!たった今!どうしよう!!ネエお姉ちゃん・・・!?」
「家が潰れたって、又地震?大丈夫?」
「又すごく大きいのが来て、とうとう潰れちゃった!ワァ~~」
「子供達は大丈夫?あなたは?そんな怖い所捨てて帯広に逃げてきて・・!」
熊本県菊池市に住む、家内の幼馴染で妹のように仲良くしている女性「サッチャン」からの悲鳴の電話でした。
14日午後10時前の第一波の時はニュースを聞き心配した家内が電話をしてみると、「家や家族は大丈夫だけど、家具家財がめちゃくちゃ散らばってしまって、どうやって片付けるか・・手も付けられないわ」と言っていました。
それが今朝未明にはとうとう家そのものが潰れてしまったそうです。
この一波の後余震自体も震度4とか5とか通常の余震以上のゆれが間断なく続いていました。そして今朝未明の地震が本震では無いか!との気象庁の担当者の話が流れていました。そして震度7で始まる前震に続きこの本震によりとうとう家まで潰れてしまったんですね。
ここ十勝も昔から地震が多く、地震の怖さは体験していますが、熊本の皆さんの、地震の恐怖と甚大な被害に対し心から御見舞申し上げます。
「サッチャン、いつでも避難して来て・・・!」
クラス会
10日日曜日、高校のクラス会が開かれ出席して来ました。
昭和42年(1967)入学組みで、今年(2016)で49年目を迎えた仲間達です。
新入学時40名だったクラスのうち死亡6名、行方不明(音信不通)2名。生き残り32名の内の14名が出席しました。
紅顔の美少年達も約半世紀の風雪に耐え、見るも無残?な姿になってしまいました。
後列右から2人目のオヤジ?は高校卒業以来初の出席となり後から来る者達からお前は誰だ?と、誰何を受ける始末。でも地元に戻れば従業員140人ほどの製造業を営む社長様となっていらっしゃるとか・・・。急にわざとらしく言葉使いを改めてしまいましたが、額も程よく後退し、肌の色艶もよく、喋りも滑らか!また前列左から3人目、こいつは(いやいやこの方は)高校の教師を定年まで勤め、今では孫の面倒を見るのがシゴトなんだって・・・・!この二人は生きることの苦労が足りず、なんとも我々百性組とは若干人種を異にする面相でした。
後は稚内、根室、中標津、伊達と管外組みが4名。そんな仲間達が午前3時半頃まで大騒ぎ。まだまだ若いのか?
さてここでクイズ。私廣瀬文彦は何処に写っているでしょうか。
1次会の終了間際の午後9時、次回の幹事と開催地を決議し2次会に突入・・・・・、だったとさ!
36、64、89
今我が家には四世代が同居しています。1歳の子は置いといて、全員が酪農にかかわり、酪農で生計を立て、酪農に生かされてきました。江戸に三代住めばもう"江戸っ子"って名乗れるくらいですから、我が家は"?ベコッ子?"かな?
酪農と言う共通の仕事で生計を一にしている"オヤジと息子"の関係は他には想像しがたい葛藤、競争心、安堵感、が綯い交ぜになった空気感が漂っています。その難しい"オヤジと息子"の関係を簡素に表現したものをネットで発見しました。転載させていただきます。
本日のタイトル36,64、89は長男、私、父の年齢です。自分自身に当てはめてみて、全くその通り、正鵠を射ているとはこのことです。私と息子の関係はと言うと、「30歳、父さんの意見も聞くべきだな!」くらいの関係でしょうか。まだ「真っ先に父さんの意見を・・・・」の心境では無さそうです。また私と89歳の父との関係はと言うと、お墓の前で「60歳、父は本当に博識だった。今ここにいてくれたら、もっと彼から学べたのに。」辺りでしょうか。父はまだまだかくしゃくとしていて、「今もまだここにいてくれるので」、もっともっと学ばなければ!(こんな事が臆面もなく言える私って大人だね?!)
春を拾う・・
今朝は雨の予報にもかかわらず、寒いと思ったら気まぐれ程度のチラチラ雪が、、、暖かかったり寒かったり、三寒四温です。
そんな中、運動がてら庭先を歩いて、いくつか春を拾って来ました。
福寿草です。
名前不知:これも誰に褒めてもらうでもなく、花を開かせています。
チューリップです。
ニラじゃなくスイセンです。
ピントが合わず見ずらいですが枝の根本に花芽が色つき始めています。画面上部の木の幹には昨年のボケの実が干からびた状態でしがみついていました。
福寿草の後にはチューリップやスイセン、それに続き桜、コブシ、レンギョウ、エゾムラサキツツジそして石楠花やレンゲつつじが咲き誇ります。・・・その頃には牧草畑もすっかり緑の絨毯宜しく疲れた目を和ませてくれます。
春爛漫はもう直ぐそこです。
失われた一年・・
一年前の3月26日、動悸、息切れ、呼吸困難などの症状で緊急入院し、4月の今頃AED搭載のCRT-Dの植え込み手術を受けて一年になります。
病衣の姿で偉そうな格好の私ですが・・・、これは11月に一ヶ月半再入院し、家内に誘われて病院内ある喫茶店に行った時の写真ですが・・・
病名は特発性拡張型心筋症と一昨年10月に入院した時に言われた病名です。そのときは進行性の心臓病なので無理はしないで下さい。5年生存率は76%です、とも言われました。そして無理せず大事にしていたけれども、進行して再発し3月末の再入院となりました。そのときの診断は心筋症がより進行し心房細動の発作の危険が著しくなり突然死の可能性が非常に高い。よって絶対安静にし、状態が安定した所でCRT-Dの植え込みが絶対に必要で、この機械の特徴は24時間心臓の拍動を助けるペーシング機能と心房細動など発作が起こると即反応して電気ショックを与える機能も搭載されています。
CRT-Dの植え込みの後、自分の普段の拍動とぴったり合うまで、非常に辛かった。そしてまた薬も突然のように15種類ほど毎日飲む羽目に・・・・。そしてその薬も体に合わず、吐き気と食欲不振、そして点滴の連続、まあ辛い入院となりました。一科入院3ヶ月ルールで6月末にはいったん退院するも、2週に一度の定期受診の他には家出寝たり起きたりで、社会と隔絶された生活でした。
11月にはまた入院をし、なんとか平成28年を迎えました。
季節もようやく春めいてきて、継続歩行の距離(息切れせずに)も少しずつ伸び、何となく気分の良い日々を迎えられるようになりました。
この一年社会から離れ自分の体のためだけに生き、家族もまた私の体調を第一に過ごしてくれました。まだまだ日常生活に多くの制約があり万全ではありませんが、幾つかの役職の会議などに復帰したりはたまた牧場体験の申し込みが相次いだりで生きている実感がします。
家族や主治医をはじめ全ての人々に感謝です。
失われた一年と言うよりも、後残りの人生をより豊に生きるためのリハビリ期間の一年でした。