2月2日
昭和38年2月2日未明の事だから、55年も前のこと。
ハツばあちゃんが数え年88才で息を引き取ったその日。つまり今日は祥月命日で、今は仏間の鴨居の上から家族を見守ってくれている。
農作業が忙しい日々の両親、祖父母に代わって何くれとなく可愛がってくれた。
また、オレが1、2才の頃我が家で飼っていた綿羊(毛糸を作る為に)のオスが柵を壊して逃げ出し、住宅の引戸を頭で何度も突つき始めた。中々止めないのでオレが入れられていたイズコを隅に置いて三尺×九尺の飯台をバリケードにして身を挺して守ってくれたり...
「 夏の風は太っていていくら窓を開け放しても入っては来られず、冬の風は痩せていて隙間から入ってくる。」と暑さ寒さを笑い飛ばし...
皮が硬いカボチャをスイカ割りよろしく「刀(脇差)」を振り落として割ったり...
切り傷には「ヨモギの葉をよく揉んで当てがったり」、やけどをした時などは「その部分に漬け物の白菜の葉を当ててくれる」。
年頃になって当時のガールフレンド(今の家内。断じて間違いない⁉︎)と喫茶店に行き、洒落てハーブティーなるものを注文して驚いた。「なんじゃこりゃ⁈藪の野草を乾して馬の冬用の餌にと蓄えていた馬草の匂いだ!ハーブって馬草かよ!」驚いてマスターに「ハーブの材料はなに?」と聞くとハッばあちゃんが生前よくゲンノショウコやドクダミ、クコ、ハコベなどなど医者要らず(薬草茶)の材料である野草(馬草)とほぼ同じ!今思えば経験と知恵で不便を不便と思わない古き良き時代の生き証人だった。
66才を迎える今日でも鮮明にまざまざと思い出す。
明治9年生まれのハツばあちゃん。例え11年とは言え、江戸時代の気風を色濃く残した彼女に育てて貰った時間は掛け替えの無いものだ。
ともし火の消える日
今朝の道新。
わが母校は青春アニメ「銀の匙」の舞台大蝦夷農業高校のモデルとなった帯広農業高校だ。
オレは昭和42年度酪農科第1期生として入学した。
その頃は女人禁制では無く男女共学となっていたものの、むさ苦しい男子ばかり。受験は指定された席で受けるが、その時隣り合った受験生が何処から仕入れて来た情報なのかがせネタなのか「今年は20年ぶりに畜産科を改め酪農科と改変した事で、女子が3人出願していると聞いていたけれども1人も来ていないな〜」とため息混じりに話していたっけ。因みにその受験生は今、日本でも五本の指に入る大規模牧場を築き上げた男だが...
その高校には「定時制課程農業科」があり、クラス40人中10名程の女子生徒がいた。1学年240人中10人と言う競争率⁇だ。
この定時制は春から秋にかけての繁忙期には週に2日の登校。冬期は我々全日制と同じ登校と言ったシステムで、その女子生徒10人の存在感は大きいものだった。例えば三階の教室からグランドを見てみると、定時制のクラスが秋の体育祭に合わせて「マイムマイム」などのフォークダンスを楽しそうに踊っているではないか。我々のクラスではそんな潤いのある種目は望むべくもなく、本格的にまわしを締めての相撲かラグビーだった。
書けば書く程青春時代の怨み節みたいになっている。
この「65年の歴史に幕」と言う新聞広告を見て、「あゝオレと同い年!」。長く生きて来たと言う感慨と時代の変わり目を感じる。
レジスタンス
今日午後、JICA研修生11名を三時間に亘って受け入れた。
講義題目は「経営教育と経営論」と誠に難しいものだが、要するに(自家生産から商品開発・販売まで)という事でだ。つまり今風に言うと、広瀬牧場ウエモンズハートと言う六次産業化の先進事例を学びに来たのである。
今回の研修生はアフガニスタン、ブルキナファソ、ガーナ、コソボ、ルワンダ、タジキスタン、ウズベキスタンそしてマラウイからで、自身の乏しい知識乍、テロ、民族紛争、難民、飢餓と言った言葉が思い浮かぶ国ばかりだ。
講義では
一つに渡道100年となる我が家の歴史
二つ目は我が家の4本の経営の柱について
① 酪農、②ウエモンズハート、③酪農教育ファーム、④山林経営
三つ目は上記四つの経営の柱についての夫々の考え方である。
①の酪農については次世代に経営移譲し②は家内を中心に三男が経理を担当。③の教育ファーム活動は身体を酷使せず行えるので、自身のライフワークとして命尽きる迄頑張りたい。などと持論を語る。
そこで、ルワンダの革新的な開発のための能力強化部執行委員会プロジェクトマネジャーの肩書きを持つソソさんから質問があった。
「酪農教育ファーム活動が余り売り上げに繋がらないと言うけれど、続けて行くためのモチベーションはどうやって保っているのか?」というものだ。
答えて曰「簡単に言うと、日本政府と経済界へのレジスタンスです!」続けて「食料主権は独立国に認められた基本的権利です。そう言った権利がありながら戦後80%以上あった食糧自給率は36%に迄落とし、酪農家の数も最大時45万戸あったものが今は1万7千戸弱。更に食糧を人身御供に差し出してもでも一段の貿易の自由化(グローバル化の美名の下アメリカ化と揶揄される、米国からの年次教書を順次受け容れる事)に邁進している。そんな日本政府へ消費者を巻き込んでのささやかな抵抗です。オレの酪農教育ファーム活動のモチベーションは、牛乳のユーザーの方々に酪農家として生かして頂いた45年を感謝し且つ将来共食糧主権を護りたい...」‼︎
彼女の質問に答えて、何故酪農教育ファーム活動を続けるのか?
余命いくばくか?高齢者の仲間入りした自分にとって、「アメリカ様に安全も食も守って貰い米国の51番目の州に成り下がっているのに恬として恥じない我が日本国政府、経済界への、ジジイのささやかだけど最大の抵抗レジスタンス‼️」だった。
由布岳の誓い!
全ての検査スケジュールを終え、昨日23日午後帯広へ帰って来ました。
業界紙、日本農業新聞を見るだけで帰って来た事を実感する。
約二週間の検査結果は、ハートシート移植後の経緯は、BNP(心臓自体の元気度とでも言うか)の数値は50と良好をキープ。そしてEFポンプ率(左心室の血液を送り出す力)は22%と誤差の範囲ながら1%下がっている。
何にせよ術後の好調をキープしているらしい。そこで問題はただ一つ体重を減量する事だそうだ。堂前先生、山田先生、伴田先生皆に異口同音に言われる事は体重を70㎏に落としたらそれだけで心臓の負担が半減出来るのに、と...
減量を固く決意し、帰りに逗留した湯布院温泉でやがて3歳を迎える孫の物より更に小さな茶碗を購入した。
写真、右から3歳になる孫の茶碗、中、左と夫々今回誂えたご飯茶碗と汁椀。
1月21日、湯布院温泉亀の井別荘八番荘で、由布岳を証人とした誓いだ⁈
因みに看護師の赤松さんによると、減量の秘訣は食生活にメリハリをつける事らしい...
1・17
平成7年1月17日早朝、いつも牛舎作業をしながら愛聴していたHBCラジオの''エノさんのオハヨーさ〜ん!"を、その時は病院のベッドの上で聞いていた。東京発の全国放送のこの番組が始まって間も無く、ナビゲーターのエノさんが「アッ、たった今東京のスタジオは地震が揺すっています。結構大きいようですが...、漸く収まりました。各地の震度などの情報は入り次第順次お伝えします。」番組を進めながら震度情報を逐次流していたエノさんは「不思議な事に大阪を中心とした関西地方の情報だけが入って来ていない様です。どうした事でしょうか?」
そして数時間後その地震は、取材のヘリなどの映像から神戸を中心にライフラインやビル、住宅などに甚大な被害を与え、後に「阪神淡路大震災」と命名され関東大震災にならぶ災害として記憶されて来た。
倒壊したビルや住宅に押しつぶされたり、身動き出来ない人達が延焼して来た火事で焼け死んだりと6,000余名が亡くなると言う大惨事だった。
病院のベッドで日がな一日テレビに釘づけだった。
消火活動もままならない中倒壊した建物の中に閉じ込められながらも命を取り止めた人を次に襲ったのは延焼して来た火だ。生きたままジワジワと焼かれて死んで行った人はどんなに恐ろしく苦しかった事か!
地獄絵図さながらの恐怖だ!
あれから23年も経ったのか⁉︎
昨年の1月17日は拡張型心筋症が悪化し帯広厚生病院で迎え、今年は昨年7月に大阪大学附属病院でうけた治験ハートシート移植手術の定期検査の為に今、大阪大学附属病院522号室で迎えた。
では23年前の1月17日はと言うと、前年の平成6年秋口、JA厚生連主催の健診で右の胸に怪しい影が見つかり肺癌が疑われた。その後精密検査を受けるもガンとは特定出来ないまま年末を迎えてしまい、翌7年1月5日に入院し、10日に右胸の肺の上葉切除手術を受け療養中の事だった。
元気そのものの人生を送って来たと思いきや、結構病歴のデパートかオレは...