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2020年4月13日(月) 17:58

160年前の恋愛事情

 我が家は大正7年に、私の祖父初次郎(47)祖母はつ(42)夫婦と三女つな、長男種治を始めとする6人の子供を連れての十勝移住がスタートだが、この事は一昨年末に上梓した渡道百年誌「賢者は歴史に学ぶ」に詳細は記してはある。822BB800-DDB9-425E-BF80-B753AE45D70F.jpeg
上は移住当時の家族写真では有るが、その写真右端に立つのが初次郎。画面には居ないが彼の両親卯右衛門、きん夫婦の馴れ初めについての話しだ。
 話しは一気に江戸時代末期にまで遡る。
初次郎の父卯右衛門は、寛政12年(1804)生まれの父十内と、文化10年(1813)生まれの母さたの次男として弘化3年(1846)2月7日大野郡北方村30番戸と言う所で生まれている。
又、母のきんは父奥村六右衛門、母たね夫婦の1人娘として嘉永6年(1853)5月15日に同村40番戸で生まれている。7才年下だ。そしていつしか2人は結婚し、息子の初次郎は明治5年(1872)1月20日に生まれている。卯右衛門は26才で、きんは19才(厳密には18才8ヶ月)で、夫々父と母になっている。この事は30年以上前に取り寄せていた除籍簿で確認できていた。
 さてつい先日、遠縁の廣瀬誠さんから明治初期の我が家の住んでいた北方村の地番のわかる古地図が送られてきた。
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早速、我が家が住んでいた「朧・おぼろ」地区に地番を落とし込んで見た。1FBEB0E6-06C1-4E1B-8B6D-144DA175BAF8.jpeg
 すると、30番戸(蛍光色の黄緑色)の卯右衛門の家ときんの実家奥村家の40番戸(ピンクに色付けしたところ)は、軒こそ並べてはいないが、すぐ隣同士で有る事が分かった。卯右衛門が腕白盛りの7才になった頃、奥村家ではきんが産声を上げていたのだ。
 さて、時代は100年程下った昭和40年(1965)頃の事だ。自分が中学生の頃、祖父の種治(明治37年生)は還暦も過ぎ大好きな庭いじりに精をだす毎日でだった。中学生の男の子ともなれば、牛舎や農作業はもう一人前。放課後や休日などは一廉の戦力であったが、祖父から見るとこれまた半人前以上の手子として、自分も始終手伝わされた。
 ある日曜日の午後、祖父が「あ〜ぁ、えろ(美濃衆の方言で疲れた事をえらいと言い、話し言葉になるとえろ、となる。決してエロでは無い)、ちょっと一服(タバコを吸わず単なる休憩)しよまいか(しようか)。」と言いながら近くの木の株に夫々腰を下ろす。
何とは無く、他愛の無い会話に続けて、昔の事が脳裏を掠めたのか、祖父の種治は「ワシのお祖父さんの卯右衛門は、連れ合いのきんとは、好き連れだったんじゃ」と言うでは無いか。今思えばなんて言う事も無い会話だが、12.13才と言った多感な年頃を迎えていた自分には、大層秘密めいた響きがあった。何しろ中学校に入りたての頃、学校では休み時間になると「オイ、ションベンに行くぞ。」などと2、3人男同士連れションが当たり前。お互い「おい、アソコの毛生えたか⁈見せてみろ!」「そう言うお前はまだポヤポヤの禿げだべや」などと、いやが上にも男と女の違いを意識する年頃だったから尚更だ。
 祖父種治は続けて「きんは奥村家の一人娘の跡取りで婿さんを貰わなければダメなんだけど、ウエモンはきんでなければダメだ。きんもウエモン兄さんでなきゃイヤダと言いはる。そこで両方の親が折れ、晴れて結婚出来たんじゃ。」
 今回送られて来た古地図から、二軒のこの近さを知るにつけ、少年卯右衛門はきんの成長をつぶさに見ていただろうし、一人っ子のきんも卯右衛門兄さんを慕って後を付いて歩いたなどと想像してしまう。
また、廣瀬と奥村は隣同士て田んぼも接していて、一服なども一緒にしていたかも知れないし、お互いの働きぶりも知悉している。お祭りや花火の折には二人で星を眺めたり、正月はカルタ大会など少しずつ意識するようになったのかも...。或いは夜這いをしたか...(あぁイカン、イカン、どうも妄想が...)
どちらも駆け落ちをすると言い張ったか、二人で首を括ると脅したか状況は定かでは無いが、親の決めた結婚が当たり前の時代に、かくもお互い恋焦がれて結ばれた夫婦の末裔かと思うと、自分の中にもそんな熱い血が流れているんだ!と感動した。
 当時は、黒船来航があったり尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、明治維新と言う激動の時代にも関わらず、男女の恋の炎は燃え上がるものなんだ!

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